映画「WE ARE LITTLE ZOMBIES」
映画「WE ARE LITTLE ZOMBIES」
わたしはアートが解らない。エキセントリックなものはもっと解らない。
だからちょっとアーティスティックな映画など、観てもわからないことのほうが多い。
その中から好きなものを拾うのが精いっぱいだ。
このキャラクターが好き、とか、この音楽が好き、とか。
でも、この映画は違った。
エキセントリックだし刺激的だし、常識から外れたところもある。
でもぜんぶわかるのだ。わかってしまう。
観ながら随時おどろいた。そしてめちゃくちゃ興奮した。
平均年齢13.5歳の主人公バンドが見る、注ぎ込まれても注ぎ込まれても乾いたままの風景とか、
時折出てくる少数のウェットな大人へ対する嫌悪感みたいなものとか。
共感、ともすこしちがう。わたしはこの色を知っている。そんな感覚。
両親を突然亡くした中学生の子供たちが冒険の旅に出る。
「中学生って微妙な年頃で子供でも大人でもなくて…」なんて話ではない。
彼らはくっきりと大人の世界に線を引いた子供たちだ。
世界に違和感しか感じられない彼らが、世界に喧嘩を売り、蹂躙し、蹂躙され、
そしてまた世界へ飛び出していく物語。
明快ではないけれど明確にわくわくするアドベンチャーストーリーだ。
あと、ほんとにほんとにこの映画、音楽が素晴らしいです。
デジタル音のピコピコも、アコースティックな楽団も、もちろんバンドの演奏も。
音楽を聴くためにもういちど映画館に行きたいくらい。
(でも音楽だけじゃ、コーヒーに入れないクリープみたいなものだと思う)
お金を払ったことも忘れるくらいに楽しい時間だった。
とびきり大好きなバンドのライブを観たあとみたいに胸がいっぱいで、胸がすいた。
と、思ったら、劇中で一番心に残ったせりふがこれだった↓
大人は深呼吸するのに大金払ってるのよ。バカだから、大人は。
映画について詳しくは公式サイト:
https://littlezombies.jp/
劇中バンドの演奏は:
https://youtu.be/2qjOEQattO4
https://youtu.be/MICIdvTXvDs
ボギーさんちのモンドくん、男前だー!
「なんにも変わっちゃおらへんよ」
不意に記憶の中の声が、
たぷん、と心の中に沈んでくる。
殺伐とした日々だ。
毎日カップラーメンを買っては食べられずストックし、
毎日アイスクリームを買っては食べないまま眠りこんでしまい、
冷凍庫の中がやけにカラフルとなった。
その隣には解凍する気力も失ったうどんがうずくまっている。
たのみにしていたいくらかの希望、
たのしみにしていたいくつかの出来事、
いちどにいろんな事が変わりすぎて、
すっかり参ってしまった。
でもきっと、ほんとは
「なんにも変わっちゃおらへん」のだ。
世界はいつも穴ぼこだらけ、
すてきに不変で不完全だった。
その穴を避けることを、忘れていただけ。
不意に記憶の中の声が、
たぷん、と心の中に沈んでくる。
あたたかい生き物が乗っかってるみたいで、
ちょっと重たくてかなしい。
でも、しばらくはこのままで。
「いまが分かれ目ですね」
前髪を切ることは選択肢になることすらなく、それは必然だったらしい。
「切りますね」と言われ、わたしは「はい」と承諾する。横分けにして耳にかかるくらい伸びた前髪は、いちはやく簡単に切り落とされて終わった。
「いまが分かれ目ですね」とは、わたしの近況に対する彼(美容師)の感想である。
「どちらの道も魅力的だし楽しいけれど、どちらに行っても後戻りはできないですよ」
おい、サイドの毛を梳いたり髪色を決めたりする作業の合間に話すには少々シビアだな。
選ぶなら結末も含めてすべて愛せるのか?
その問いは道を選ぶときのひとつの指標になるだろうか。
ところがわたしときたら、選べず選ばれもしない、はじまることもない物語を、そのすべての登場人物を、すっかり愛してしまうタチなのだ。
そすうるともう、もしかすると舵は切っているのかもしれないな、と、彼に話していないふたつみっつの事項を思い浮かべる。
前髪が短くなりました。
切ってしまえば、他に選択肢はなかったのだと思い知らされる。しっくり馴染んだ風貌が鏡に映る。
中学校の図書館というキーワードからの回想
はじめて一人で京都市内へ出かけたのはたぶん中学2年生のときで、あ、バッチリ校則違反でした(大人同伴でなければ市外へ出てはいけなかった)
なぜかJRではなく、バスを使ったのを覚えています。老ノ坂を越えて。なぜでしょう。理由が記憶にない。
なんのことはない、るろうに剣心から司馬遼太郎、池波正太郎とすぶずぶハマった幕末の史跡詣ででした。見事に色気がありませんが現実です。
途中、バスの車窓から見える京都市内の道路が、ただのアスファルトの道路が、ひどく特別に見えたこと。胸がはちきれそうにワクワクしたことを鮮明に憶えています。
歴史上の、本の中のひとたちがそこを通ったかもしれないこと。まるで自分が同じ場面に立ち会えたかのように感じたこと。
あれからずいぶん時が経ったけれど、わたしはなにも変わっていないのだと感じます。
なんの変哲もない空間で
城山の遊歩道で
神社の境内で
鎌倉の路上で
古本屋の片隅で
頁を開いたところで
立ち止まって
かつて存在したもの、もう存在しないものを想っているのでしょう。ほんとうは見えないのに、見えたと信じているものに焦がれているのでしょう。
中学校の図書館から、長い小路がここまで続いています。
誰にも遭わない細い路だけれど、要所要所で明かりを灯したり花を咲かせたり、居心地は悪くないのです。